MSPの目的とその批判

数日前に明治大学シェイクスピアプロジェクト(以下MSP)の制度を批判する文章を書いた。執筆当時は、まだ淡い期待を抱いていたのだが、2023/11/20付で発表された企画によって、MSPに多少期待していた自分が馬鹿だったのだと思い知らされ、この文章を書いている。

その企画とは来年度、MSP歌舞伎としてヴェニスの商人を原作とした歌舞伎である『何櫻彼桜銭世中』(さくらどきぜにのよのなか)を初の地方公演として、石川県能登演劇堂で上演するというものである。

この企画の発表によって明らかになったのは、MSPの目的が「学生がシェイクスピアを上演すること」にあり、この「シェイクスピア」もシェイクスピアに関連したものであればなんでもいいという、企画のみに重点をおいた全く節操のないものであるということだ。舞台の完成度など始めから考えていないのである。

今までもラボ公演やミュージカル公演など派生公演は存在した。

ラボ公演は本公演の作品からインスピレーションを得た作品やパロディ作品などを上演し、舞台芸術を追求する試みとして面白さのあるものだった。

しかし、20周年記念企画として行われるミュージカル公演には問題がある。11月26日父母会を対象とした公演、12月1日明治大学駿河台キャンパスリバティタワー1013教室、12月9日カフェ・パンセで公演が行われるのだが、ミュージカルであるにも関わらず、音楽や声の響きが全く考えられていない場所での実施である。この扱いが本公演の片手間でしかないことを露呈している。

では歌舞伎公演に戻ろう。MSP初の地方公演とのことだが、まず観客としては父母会を中心とした関係者のみだろう。明治大学のある東京の本公演でさえ、空席が出るほどの知名度しかないのだから、地方での公演で外部から人間が来るはずもない。そして、歌舞伎を上演することについてだが、これに関しては全く必要性を感じられない。素人が歌舞伎をやるべきではないと言っているわけではない。大学の歌舞伎研究会が学園祭で歌舞伎の一場面を演じるということはよくある。しかし、そこには間違いなくリスペクトと歌舞伎の面白さを知ってほしいという確かな目的が存在する。「シェイクスピアを元にした作品」であれば、なんでもいいという態度が一貫しているMSPにとってたまたまいい題材として歌舞伎があっただけだろう。父母会に対してであれば、世間一般が抱く、歌舞伎のようなものを見せておけばいいという浅はかな考えが透けて見える。伝統など無視した、外国人観光客向けにアイコンとして使われる歌舞伎と同様の扱いである。

この歌舞伎公演やミュージカル公演は、MSPというものが演劇を志す学生にとって大きな影響力を持つようになったがゆえに企画された「やりがい搾取」の象徴とも言えるものだろう。そこに歌舞伎やミュージカルという舞台芸術へのリスペクトは全くない。既存のものであろうが、新しく作ろうが、シェイクスピア関連であればなんでもいいのだ。父母会へのご機嫌取りとして大学が学生を利用している。あまりに酷いものである。

本公演は通常の演劇よりも長期間の稽古によって参加者に偽りの満足を与える。観客は関係者しか来ない。学生が行うというだけで父母会は称賛する。MSPは行うこと自体が重要であり、舞台の完成度など始めからどうでもいいのだ。今回の企画発表ではっきりした。学生を搾取するMSPという企画は腐り切っている。いつかこの制度を改革せんとする学生が現れることを願うばかりである。

明治大学シェイクスピアプロジェクトの諸問題

明治大学シェイクスピアプロジェクト、通称MSPは今年で20周年を迎えた。

大学を挙げて行われ、約4ヶ月の長い稽古期間を得て毎年明大祭の時期(10月末〜11月頭)に3日間の公演が行われる。

今年の演目は『ハムレット』、シェイクスピアの最高傑作とも謳われ、20周年に相応しい演目であった。

ただMSPがこのままの状況に安住している限り、これ以上の演劇の質の向上は見られないだろう。

 

MSPが持つ問題点は大きく3つ存在し、1.無料、2.観客層、3.目的の不在である。それぞれが大きく関係し合うこれらを独立させて論じることは難しいが、ひとまず無料であることを出発点としよう。

無料であることは観客の観劇へのハードルを下げる一方で、観劇という行為自体の価値をも同時に下げることになる。

ある講談師が以前まくらで無料の客が1番悪いと言っていた。SNSでは招待客のマナーの悪さが度々話題となる。つまり、公演の金額は観客の観劇態度に大きく影響するのだ。

話を戻すと、MSPの観客の観劇態度は決して良いものではない。通知音が鳴り、頻繁に物音がする。少なくとも私が観劇した公演はそうであった。演劇は観客が入って成立する。観客が演劇の一部であるということは、観客の質が悪ければ演劇の質も悪くなるということだ。周囲の雑音によって虚構は一気に崩れ去る。それが演劇の脆さである。

 

MSPは主に観客として父母会と明治演劇関係者とその周辺の人々を対象としている。つまり、観客層のほとんどが出演者並びにスタッフと関連のある身内ということだ。ある表現行為において身内が受け手の大半を占める場合には批評は生まれない。褒め言葉だけが発信される。この状況をMSPは改めようとはせずに胡座をかいている。いくら毎年メンバーが変わるとはいえ、ほとんど内部で完結する現状の制度そのものが変わらなければこれは繰り返され、発展することはない。言ってみればMSPは運動会と変わらないのである。努力の成果を身内に見せること以外の目的が見えてこない。通常の演劇よりも長い期間をかけ、シェイクスピアを演じるにも関わらず、舞台芸術としての探求がなされていない。

 

身内に努力の成果を見せるだけの運動会のようなイベントを大学生が行うことにどのような意義があるというのか。MSPの感想としてよくあるのは「学生で/なのに」という枕詞のついた感想である。これは「学生が」シェイクスピア劇に取り組んだことを(劇の評価に含んで)評価しているのであり、舞台上で演じられた劇そのものを評価しているとはいえない。この評価の基準それ自体を否定する気はない。ただもし仮に、学生であることが伏せられ、身内もいない場合にこのような感想を抱く人物はMSPを評価するのだろうか(そもそも足を運ばないかもしれない)。3ヶ月という長い稽古期間は「学生」という肩書きを払拭できるレベルまで質を高めるためにあり、それを教授や外部の講師がサポートしていくのではないか。現状、この長期間の稽古は、仮初の満足をキャスト及び関係者に生み出すものになっている。舞台そのものの出来に関わらず、通常よりも長い期間、複数の人間と共に稽古を行なってきたという達成感によって満足させられてしまうのである。(もっとも観客の感想としてはほとんど褒め言葉しかないのだが。)

 

MSPは身内が観客の大半を占め、無料であることで演劇の質の上限を生み出している。今、必要なことは外部の人間を観客として増加させること、開催する目的をプロセスではなく完成させる舞台に置くことである。これらの点が改善されない限り、MSPのこれ以上の発展はなく、ただの形式的な年中行事と化してしまうだろう。